人の命   個人   世界   心の旅紀行(ブログ)

 

 

人の命(Human Life)に関する研究(命学)

Human Life Study

 

 

精神は精神本体と自我からなると考えられます。

 

精神本体は人がウイルスのような状態から数千万年、数億年、もしかすると数十億年かけて発達してきたと考えられます。

人が精神本体を認識するしないに関係なく、精神本体はすべての人に先天的共通的に働いています。

原始的精神、原精神、基本的精神と呼ぶこともできます。

自我は最近数百万年の間に精神本体の上に発達してきたと考えられます。

本質は先天的共通的ですが、後天的個人的に発達する部分が目立ち、人は誰でも自我を認識します。

 

精神本体も自我も人を生かすために働いています。

特に精神本体は、人に認識されなくても黙々と働き、人を生かし、自我を助けています。

人生とは精神本体と自我の二人三脚と考えられます。

 

私は精神本体を「人の命」(Human Life)と呼んで、その働きを研究しています。

そして人の命(Human Life)に関する研究を命学(Human Life Study)と呼んでいます。

 

人の命について研究していると、個人の生き方、あるべき社会、あるべき世界が派生的に描かれてきます。

そこで私達は人の命を第一テーマ、個人を第二テーマ、世界を第三テーマとして考え、小論の形で蓄積しています。

また、日々思ったことはブログに書いています。

 

Human spirit may consist of its main part and self.

 

Main part of spirit is considered to have been developed over billions of years since human beings might be in a state like viruses.
Whether people recognize main part of spirit or not, main part of spirit is native and common to all people and works in them.
It can be called primitive spirit, original spirit or fundamental spirit.

Self may have progressed on the main part of spirit in recent millions of years.
Although it is also native and common, the portion which progresses a-posteriori individually is conspicuous.
People recognize self easily.

 

Both main part of spirit and self work for a person to live livelily.
Even if main part of spirit is not recognized by a person, it works silently and helps a person and its self in order that a person lives livelily.
Human life is considered a three-legged walking of main part of spirit and self.

 

We call main part of spirit "Human Life", and study its functions.
And we call the research on "Human Life"
「命学」 (meigaku Human Life Study.


While studying "Human Life" many ideas come out about good individual ways of life, desirable societies, and the hopeful future world.
The ideas about "Human Life" are compiled in a sub-website
「人の命」(Human Life), the ideas about individuals, in a sub-website 「個人」(Individual) and the ideas about the world, in a sub-website 「世界」(World), in a form of a short article.
Moreover, what are considered every day are written in blogs
「心の旅紀行」(kokoronotabikiko: Book of Heart Travels.) 
 

 
キコウ(Kiko)

E-mail:kiko05@hotmail.co.jp

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【最近考えたこと】(What we thought recently)

〇戦争は国の犯罪

 

憲法第9条に「国権の発動たる戦争」という言葉があります。

1946年当時、戦争は国権の発動という考えが一般的だったのでしょう。

これは間違っています。

 

真実は、戦争は国の犯罪です。

だから憲法は、日本国は戦争を放棄すると定めたのです。

 

マフィアの世界では家と家が縄張りを争って戦争するそうです。

国はマフィアの戦争をマフィアの主権の発動などとは言わないでしょう。

マフィアの戦争は犯罪です。

2017.5.26

 

〇神とは

 

会社に入って我を張って上司や同僚と対立し、退社を決心したが、ある人が、私はどの社会でも我を張り他人と対立する、社会に居場所がない、我を張ることは愚かと言って私を教え悟しました。

この人に反論できず、私の我が崩壊してしまいました。

この人がキリスト教信者だったので私はキリスト教を学び始めました。

キリスト教を信じて30年ぐらいがたちました。

 

感心する教えは非常に多いと思いましたが、キリスト教を学べば学ぶほど、真実と思えないことも非常に多いと思うようになりました。

ほかの宗教書も数多く勉強しましたが、感心する教えはやはり非常に多いと思いました。

一方、真実と思えないことも非常に多いと思いました。

宗教以外の哲学、心理学、生物科学、神経科学などの書物も読んでみました。

精神の働きを研究しましたが、いわゆる信仰の力は、外から来るのではなく中から来ると実感するに至りました。

キリスト教の聖霊は大きなヒントになりました。

 

キリスト教に限らず霊感を経験する宗教信者は非常に多いと思います。

感じるのは自我です。

自我が我を張らず、神を信じて祈ると不思議な力を感じます。

安心、自信、力が湧いてきます。

 

信じるという行動は自我の精神行動です。

この精神行動に協働する何かが精神構造の中にあると推定できます。

精神的なものでなければ協働することはありません。

外にあるものを信じてもそのものが祈りに応えることはありません。

信者は外物が応えたと思っても実は精神構造の中にあるものが応えたと考えることが妥当と思います。

 

自我は、人類が人らしくなってから大いに発達しました。

この自我以外にすべての人に内在する精神と言えば、原精神、原始的精神、つまり動物的精神以外に考えられません。

人類は、人らしくなる前に、ウイルスのような状態、原始的生物の状態、動物の状態、そして猿のような状態を経ました。

この気が遠くなる長い時間を生き抜いてきた、人になる前の人に発達してきた動物的精神は非常に大きな生きる力を持っていると言えます。

そうでなければ人はとうの昔消滅していました。

精神とは動物的精神を精神本体とし、その外側に自我が発達したものと思います。

 

この精神本体を神と呼ぶことは矛盾がないのではないでしょうか。

神はすべての人の精神の奥深いところに内在すると思います。

我を張りやすい自我が、我を張ることの愚かしさを悟り、神を信じて祈ることにより、神はその祈りに饗応するのだと思います。

2017.2.13

 

〇国家主義者と世界主義者の対立

 

アメリカの入国制限や輸入制限の動きは、アメリカに混乱を起こしているだけでなく、外国にも大きな混乱をもたらす恐れがあります。

世界交流はアメリカが主導してきたと思います。

アメリカのおかげで中国やロシアも世界交流の仲間になったと思います。

数多くの世界機関、世界会社、世界人が誕生し、新世界づくりの基盤ができつつあります。

世界機関、世界会社、世界人は世界で活躍し、国より世界で活動する利点を実感してきました。

 

しかしアメリカは国であって世界国にはなれません。

世界交流によって外国も主権に目覚め、アメリカに対抗して国として自分の主権を主張します。

アメリカの世界支配力は高まるどころか、アメリカと争う国が増えました。

国の間では多極化が起こっています。

 

アメリカ系世界機関・会社・人はアメリカのためではなく、世界的活動を拡大することに存在価値を見い出しています。

彼らから見ればアメリカは活動の場としては小さくなりました。

 

アメリカの政治家・国家主義者らは世界における国の地位低下に伴い、自分の地位低下に不安を感じています。

しかし、世界人のように世界的活動ができません。

外国と同盟する、あるいは対立するぐらいの古典的活動の場しかありません。

 

イギリスがEUから離脱する、アメリカがTPPから離脱する。

これらの行動は国家主義的政治家が主導してやったことです。

保守反動が起こったと解することができます。

 

世界主義的政治家が国の中で力を持てるか興味津々です。

世界的活動ができないアメリカ・アメリカの政治家・国家主義者と、世界機関・会社・人の力関係は興味津々です。

言い換えると国・国の政治家・国家主義者と世界機関・会社・人の争いがこれから面白くなります。

 

すぐ世界機関・会社・人が勝つとは思えません。

国・国の政治家・国家主義者の反動的巻き返しはすごいと思います。

税金という国の集金力、税金を使った人を集める力は非常に強く、世界機関・会社・人の集金力、人を集める力に勝ると思います。

 

しかし国は決して世界機関・会社・人の自由を奪うことはできません。

最後に勝つのは世界機関・会社・人と思います。

国も世界の一員として世界に順応することになると思います。

2017.2.8

 

〇神の考えは人間の考え

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの一神教の神は目に見えない外なる神です。

ユダヤ民族が信じた神です。

 旧約聖書によるとユダヤ民族の先祖は大昔カルデヤのウルを出たとありますが、当時のカルデヤの人々は、人間がつくった神像、太陽、月、その他の星を神々と信じていたそうです。

ところがユダヤ民族の先祖は、神像は神ではない、無数の星も神ではない、無数の星(万軍)を束ねる唯一神(主)が存在すると信じたのでしょう。

 人々がまだ知らない真実を知ったと思い、唯一「神」について人々に話したのではないでしょうか。

しかし「神々」を信じる宗教組織が存在し、当時は権威を持っていたと思います。

ユダヤ民族の先祖はウルで迫害をうけたのでしょう、一族を引き連れ、新天新地を求めてウルを出、北方に向かいました。

ウルを出た先祖の子、アブラハムからユダヤ民族の信仰について旧約聖書に記録が残っています。

ユダヤ民族が信じた神は目に見えない神です。

 万軍の主と呼んでいることからわかるように宇宙をすべる神であることは明白です。

 

ユダヤ民族の一人、キリスト教の祖、イエスもこの神を信じました。

したがってイエスが信じた神も目に見えない外なる神でした。

キリスト教で特異な存在は聖霊ですが、新約聖書は聖霊がハトのように天からイエスに下ったと書いています。

イエスは神は天に存在すると信じ、聖霊は神から来たと信じていました。

 

イスラム教の祖、預言者ムハンマドはアブラハムの信仰についてよく知っていました。

アブラハムが信じた神を信じました。

したがってムハンマドが信じた神も目に見えない外なる神です。

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は同じです。

ところがユダヤ教、キリスト教、イスラム教は別の宗教です。

 信じる神は同じでも、信じる神の考えが異なるからです。

 

すぐ誰でもこれは変と気付きます。

そんなことはありえないと思います。

 同じ神が違った考えを人間に教えることはないからです。

 

神の考えとは人間の考えであることがわかります。

 神の考えとは神が言ったことではなく、神が言ったと人間が思ったことであることがわかります。

 

こうして今では既存の一神教の神の絶対性および神の考えの絶対性が失われ、既存の一神教も宗教の一つになりました。

 

信仰を持っている人が、信仰を持っていない人と比較して自信を持って生きていることは事実です。

 信者は信仰の力を感じて生きています。

この信仰の力はどこから来るのでしょうか。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の信者は、目に見えない外なる神から来ると信じていますが、そうではないことは明白です。

 

精神は人が人間らしくなってから発達した自我と、気が遠くなるような長年月をかけて発達してきた精神本体(原精神、原始的精神、動物的精神)からなりますが、この精神本体は気が遠くなるような長年月、命が絶えることなく人を生かし続けてきた「生きる力」です。

 非常に大きな力を持っています。

そうでなければとうの昔に人は消えていたでしょう。

この精神本体が神と思います。

 

生きている人にはすべての人に精神本体が内在します。

 信仰を持っている人は神仏を信じますが、神仏が何であるか知らなくても、目に見えない外なる神を信じても、神仏を信じると自動的に精神本体が感応して信仰者を助けるのだと思います。

これが信仰の力の秘密だと思います。

 

ところで信仰の力がほしいならば何を信じてもいいのですが、問題は正しく生きるか、幸福に生きるか、平安に生きるかということだと思います。

これが法、神仏の教え、知恵です。

 知恵とは、気が遠くなるような人生経験から人類が知った、正しく、幸福に、平安に生きる知識です。

これらの知識は仏教、キリスト教、イスラム教などの宗教書の中に多く取りこまれています。

しかし知恵は宗教書に限りません。

 宗教以外の分野でも多くの人が知恵を記録しています。

 

知恵とは一生かけて学び、また自分で考えるものだと思います。

2017.2.1

 

〇宗教の本質

 

宗教信者に団体所属を重視する人が多いのですが、団体については注意すべきことが多いと思います。

 

宗教では真実を問題にする人が多いと思いますが、宗教団体に属して真実を追求することはむずかしいと思います。

 団体は団体を運営するという現実的問題があります。

また団体が長く続くと、伝統あるいは慣習が生じ、それを変えることができなくなります。

 教祖の教えと矛盾するような伝統あるいは慣習も増えます。

 

団体には自由がありません。

 団体に所属すると、伝統あるいは慣習に慣れてしまい、型にはまります。

 真実追求とは無縁の型にはまった人生になります。

 団体が「この政党を支持する」と言えば、その政党に投票するような信者になります。

 

団体の利点は、団体があがめている教祖の教えを学ぶことができることですが、いつまでも団体で学び続けると、変な伝統あるいは慣習まで身についてしまいます。

 

また、団体は社交場として有効であり、考えが近似していますから、気が楽という利点がありますが、人の考えは千差万別という現実を否定し、団体に所属しない人を差別し、非現実の狭い社会に生きる恐れがあります。

 

真実に生きるには、宗教団体を絶対と思わず、最終的には宗教は団体宗教ではなく、個人宗教であると知るべきと思います。

 

なお、教祖の教えですら、時代の影響を受けていることが多いので、現代に通用しないことがあると知るべきと思います。

 

一人一信仰というのが真実ではないでしょうか。

 宗教で世界を統一するということはありえません。

 宗教の数は無数という現実が宗教とは何かをよく示していると思います。

 

ほかの宗教団体を否定し、宗教争いをやることは、宗教の本質を知らないことに起因します。

2015.10.25

 

〇宗教とヒューマニズム

 

人は宗教が真実かどうかより、自分の利益を重視していると思います。

宗教が何であれ、自分が欲するものがえられれば満足していると思います。

 

鰯の頭を信じている人はいないと思いますが、鰯の頭程度のものを信じている人は多いと思います。

それでは鰯の頭程度のものを信じる宗教は利益がないかというと利益はあります。

信仰に効果があるからです。

 

世界3大宗教と言われる仏教、キリスト教、イスラム教でも神仏が真実かどうかはわかりません。

信者は真実と信じています。

これらの宗教が鰯の頭程度と異なる点は、神仏が、人が生きるのに役立つ知識を教えていることです。

(注)役立たない知識もあると思います。

神仏が言ったという形をとっていますが、人が神仏から教えられたと思った知識です。

 

神仏が何であれ、教えのある宗教は人が生きるのに役立つことが多いと思います。

 

神道は、教えがないとよく言われますが、人が生きるのに役立つ知識がない訳ではありません。

万物の霊を敬う、祖先を敬う、清浄を重んじる、簡素を重んじる、静寂を重んじる、自然を重んじるなどの価値観は知識と思います。

 

神道も利益を重視しています。

昔から人々は神社で平安や繁栄を祈りました。

また武士や軍人は神社で武運を祈りました。

会社は社運を神社で祈ります。

 

それでは神仏の実体を考えることは無意味かというとそんなことはないと思います。

キリスト教では神学があって神、イエス・キリスト、聖霊について従来のキリスト教を危うくするような大胆な学説が発表されたりしています。

神仏の真実に迫る学問は価値があると思います。

 

鰯の頭程度のものを信じていると周りの人が馬鹿にします。

馬鹿にされることによる不利益をこうむることがあります。

 

霊感商法に騙され、空しい人生を送ることもあります。

 

世界3大宗教でも、周りの人が信者を変わっていると思うことは多いと思います。

そう思われることによる不利益はあると思います。

 

世界で政教分離が進んでいますが、これは既存宗教の非現実性を示しているのではないでしょうか。

既存宗教は、現代人の慣習、習慣に大きな影響を与えましたが、現代の慣習、習慣は宗教由来とは気付かないものが増えていると思います。

中世から発達したヒューマニズムが慣習、習慣に大きな影響を与えるようになりました。

 

イスラム過激派の活動で今イスラム教が目立っていますが、百年の単位の年月をかけてイスラム世界でもヒューマニズムが広がっていくと思います。

 

私は精神の奥深いところで作動している精神本体を神と思っています。

長い間、仏教、キリスト教、イスラム教を勉強してきましたが、これらの宗教で説明できない現実が無数にあります。

精神本体と考えると説明できるようになります。

神仏の実体がわかると宗教とヒューマニズムは調和すると思います。

2015.4.7

 

〇一神教を消そうとしても消えない

 

テロリストに襲撃されたパリの出版社の経営者は自分の経営方針を正しいとしてイスラム教教祖ムハンマドの揶揄を続けています。

テロは罪ですが、ムハンマド揶揄も罪だと思います。

 

罪と罰は成文法の世界だけのことではありません。

不文法の世界のことでもあります。

世界交流時代です。

フランスの中であってもフランス法下で正しければよいとする態度は誤りです。

 

出版社が計画的に襲撃されたことは、ムハンマド揶揄の罪に対し罰を下した人がいたことを意味します。

このような人は一人や二人ではありません。

 

世界交流時代では人の価値観は千差万別ということを知らないと無事生きることはできないと思います。

自分が正しい、相手が悪いと言っているだけでは駄目だと思います。

自分中心では社会を明るくすることはできないと思います。

 

問題のパリの出版社の経営者は、学問的に宗教を研究し、問題点を指摘しているのではなく、自分は正しいと思い上がってイスラム教信者を見下しているような感じがします。

一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の神は虚構と考え、その知識を誇っていますが、健全な新しい生き方を考えていません。

 

既存の一神教を消そうとしても消えないと思います。

新しい生き方を提案し、実践し、広めた方が賢明です。

2015.1.14

 

〇神業の正体

 

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの有名な一神教は宇宙をつくった何かがあると信じてそれを絶対自然神としています。

科学者は神とは呼ばないが、宇宙原理があると思って日夜原理を研究しています。

一神教信者が言う神とか科学者が言う原理はありそうです。

 

ところが一神教信者はさらに神に人格があると言います。

ここまで来ると一神教信者の神観は矛盾が目立ってきます。

 

絶対自然神は冷厳で人を特別視していません。

御岳山で50人以上の人が突然噴石、降灰に襲われ、亡くなりました。

絶対神に対して篤い信仰を持った人でも死にます。

死んだら篤き信仰のゆえにこの人は神のみもとに行くというのは我田引水です。

 

突然の災害に対して的確に思考が働き、迷わず危険回避の行動をとった人について考えてみると、絶対自然神が助けたのではなく、生きる信念と、危険を避ける知識を持った自我を、その人に内在する生きる力が助けたと言った方がわかりやすいと思います。

一神教信者が人格があると信じる神は実は絶対自然神ではなく、精神の奥深くで黙々と機能している精神本体ではないでしょうか。

 

人が大きな思考力を持ち始めたのは数百万年前のことと推定されています。

神経系に大きな変化があって動物から人に進化したと考えられています。

気が遠くなるような大昔、人はウイルスのような状態だったと思います。

それから数十億年、数億年、あるいは数千万年の長年月をかけて人の前身である生物は進化してきました。

絶滅することなく、今日まで生き残ったということは、人は非常にすぐれた生命力を持っている証拠です。

人に進化してもこの生命力は引き継いでいます。

しかし自我は生命力をはっきりと認識しません。

感じるが見えません。

 

一神教信者は、この生命力を絶対自然神が持っていると思い込んだのだと思います。

キリスト教は単純な一神教ではなく、聖霊とキリストという二つの神格があります。

イエスが神の子という神学は、人は誰でも神の子ということであればわかりますが、イエスは神のひとり子となるとわかる人はいないでしょう。

しかし聖霊は真実に迫った考えと思います。

キリスト教において聖霊は生命力になっています。

イエスはあるとき聖霊が神から自分に下ったと思いました。

 

その時までイエスは自分の中で作動している聖霊に気付かなかったが、あるとき気付いた。

聖霊は神が持っていると信じていたのであるとき神から自分に下ったと思った。

 

こう考えると、キリスト教における聖霊信仰は真実に迫っていると思います。

聖霊はキリスト教信者に内在して助けています。

絶対自然神は疑問ですが、聖霊は現実に合っているように思います。

 

人には、その人が気付こうが気付くまいが、生きる力が作動しています。

複雑な組織細胞を統合して人を生かす精神本体機能だと思います。

この精神本体と自我が共働すると人は神業を示すのではないでしょうか。 

2014.10.15

 

○宗教的慣習

 

慣習にはいろいろなものがありますが、日本では神道と仏教の歴史が長かったので神道的慣習や仏教的慣習が多く残っています。

神道や仏教の信者でなくても宗教的慣習を守っている人は多いと思います。

しかし信教の自由が認められているので、たとえばキリスト教を信じた人は神道や仏教の慣習を捨て、キリスト教的慣習に従います。

したがって宗教的慣習は絶対とは思われなくなり、自分は宗教的慣習に従っていても他人の宗教的慣習には無関心という人がほとんどです。

ということは宗教的慣習をすべて捨てても他人からとやかく言われることはないということです。

 

夏の宗教的慣習の最大のものは仏教のお盆です。

お盆とは盂蘭盆会(うらぼんえ)の略です。

陰暦715日に死者の霊をまつります。

今でもお盆の頃には家族が集まって盆供養を行う人が多いと思います。

 

しかし家族が集まるという慣習だけが残り、別に盆供養は行なわない人が増えています。

この場合は宗教的慣習というより、人間的慣習として家族が集まると言っていいと思います。

 

宗教的慣習が絶対ではないとなると宗教の絶対性も疑問です。

世界に三大宗教があることとか、信者の少ない宗教も数えれば宗教は無数であることを考えると少なくとも既存宗教には絶対的なものはないと言い切っていいと思います。

 

それでは宗教は空しいかというとそんなことはないと思います。

すべての宗教に共通することはすべての信者が神仏を信じる効果を実感していることです。

何を神仏にしたかに関係なく信じることに効果があるということは、何かを信じる、つまりその何かに自分が従順になり、その何かと自分が協力することになるので大きな力が発現すると考えていいと思います。

その何かは、自我ではない精神、間違いなく精神本体、原始的精神、原精神と呼んでいい、気が遠くなるほどの時間をかけて発達してきた精神と思います。

この精神なくして、自我未発達の大昔、動物状態の人が生き残ることはできなかったと思います。

精神本体は私達が想像することができない大きな力を持っていると思います。

 

私は精神本体を人の命と呼んで信じています。

人の命を信じるには、全然特別な慣習の必要性はありません。

必要なことは人の命を信じている心の状態だけです。

2014.7.5

 

〇キリスト教の聖霊

 

私は23歳でキリスト教を信じました。

生きる不安が消えたのは感謝ですが、信者の言動と教えの違いにすぐ気づきました。

どうしても無視できなかったことはキリスト教の師の言動と教えの違いでした。

先生から去り、自分で信仰生活を続けました。

次に問題視したのが自分の言動と教えの違いでした。

長い間、教えの自己流解釈で自分を納得させていましたが、55歳で解釈は無理と悟り、キリスト教を捨てました。

 

キリスト教で一番印象的だったのは聖霊です。

イエスは聖霊を感じ、聖霊の働きを知り、聖霊を非常に重視しました。

私も、キリスト教を捨てた今でも、この聖霊を感じ、聖霊の働きを知り、聖霊を重視しています。

 

イエスは、洗礼を受けた後、天から聖霊が下って自分に入ったと思いました。

私は、聖霊はすべての人に最初から内在していると思っています。

思い上がった自我が何かの拍子に崩れたとき、人は内在していた聖霊を感じるのだと思います。

 

聖霊とは生きている人すべてに働いている、その人を生かす精神力と思います。

基本機能は存在力だと思います。

聖霊は自我ではありません。

自分が自我を認識することはできますが、聖霊を認識することは容易ではありません。

精神の奥深くで人知れず働いており、その力は非常に大きいと思います。

自我だけの力は限界がありますが、聖霊と自我が共働すると人は非常に大きな力が出ます。

 

人類が自我未発達の時代、つまり動物的に生きていた時代、聖霊は精神のすべてであったと思います。

つまり、精神本体、原始的精神、原精神と呼んでいいと思います。

数千万年前、数億年前、数十億年前かもしれませんが、人類がウイルスのような状態の時から存在力である精神本体は作動し、人類の発達と共に発達してきたと思います。

いくたの滅亡の危険があったと思いますが、滅亡することなく、今日まで人類が生き残っているのはこの精神本体のおかげであり、人が人らしくなった数百万年前ぐらいからはこの精神本体と自我の共働のおかげであったと思います。

 

気が遠くなるような時間を耐えて生き残った精神本体が非常に大きな力を持っていることは何の不思議もありません。

私は、この精神本体を「人の命」と呼び、信じています。

キリスト教を捨てて19年になりますが、「人の命」信仰と自分の言動の矛盾を感じません。

 

神道、仏教が日本では主な宗教です。

これらは人が生きる上で重要な知識を含む宗教と思います。

 

神道では万象に霊の存在を認めます。

現れてすぐ消えるような現象でも存在力を感じるからでしょう。

生きている人には生きている人の霊が作動しています。

これが「人の命」だと思います。

 

仏教では、悟った人(ゴータマ・シッダールタなど)、理想の人(阿弥陀仏など)、その他精神的存在を仏と呼んで信仰しています。

そして仏とは命だと述べた信者もいます。

 

宗教とは安心あるいは実行力をえるため信じるものと言われています。

さらに言うならば、非常に大きな存在力である「人の命」を知ることだと思います。

知らないで信じているより、知って信じている方が安心や実行力は安定しています。

 

この「人の命」は感性だけでなく、学問でも知りえることだと思います。

宗教も科学の対象です。

神経科学は脳あるいは神経の働きをその構造と機能を細かく研究して解明してきました。

精神科学・心理学の心の働きの研究と神経科学の共働でやがて「人の命」が姿を現すと思います。

2014.2.28

 

○神仏とは

 

礼拝の場所は神社仏閣でなくていいと思います。

神仏は神社仏閣に住んでいません。

 

神仏はお金をもらっても使いません。

礼拝に必要なものはお金ではなく神仏を重視する心です。

 

神仏はお金を使わないが、信者がお金を払うのは篤き信仰の表れと説明する人がいます。

お金をたくさん払う人の方が信仰が篤いと説明する人がいます。

神仏を知らないからそう言うのだと思います。

 

お金を払う信仰が歴史的文化的遺産である神社仏閣の保存に役立っていることは事実です。

しかし遺産を保存するため信者が神仏を誤解していていいということはないと思います。

 

既存宗教団体を見るとすべて霊感商法をやっています。

宗教は儲かると平然と言う宗教者は無数です。

宗教産業であると言う宗教者は無数です。

人が欲していることである、需要があるから供給していると言って自分のやっていることを正当化する宗教者は無数です。

神仏像、神社仏閣(建物)、教材、神仏具が霊験(れいげん)を持っているかのように説明し、礼拝料、拝観料を取ったり買わせたりします。

虚偽です。

神仏はものではありません。

 

教育のため、あるいは信者交流のため、先生、事務員、集会所、教材教具が必要だから信者からお金をとるというのは問題ないと思います。

 

現在残っている歴史的な神社仏閣、神仏像、神仏具を文化遺産として保存し、保存のため入場料をとるのは問題ないと思います。

確かに歴史的文化的遺産として価値があり、保存した方がいいと思います。

 

法律でもの崇拝を禁止することは不可能です。

もの崇拝を人間の考えではなく神仏の考えと思っている人は無数です。

したがって守れない法律をつくっても法律は無視されるだけです。

 

神仏に関する知識は人々が自分で学び、考えるべきと思います。

神仏はものではない、お金を使わないと知ったら自分がもの崇拝をやめればいいことです。

霊感商人である宗教者に騙されないことです。

 

私が信じている神仏は精神本体です。

自分が認識できる自我ではなく、そのまた奥で作動している精神です。

生きている人すべてに内在し、働き、自我を助け、人を生かしています。

別に神社仏閣に行かなくても内在していますからいつでもどこでも祈ることができます。

精神本体を人の命と呼んで重視しています。

2013.12.12

 

○生き生きと生きるには信仰が必要

 

神道の神社は信仰の対象がいろいろで複雑です。

いろいろな現象に神性を感じるとその現象を神として神社に祭り崇めています。

偉人や祖先を崇めるのはその霊魂の存在と力を信じるからでしょう。

神道は教えが未発達と言われています。

しかし祈りの対象として多くの日本人が受け入れています。

 

寺院はほとんどが仏像を祭壇に置いています。

日本の仏教は原始仏教ではありませんので教祖の像ではなく、経典に登場する、人の感性知性を具象化した想像上の仏の像がほとんどです。

歴史上の仏の像や、題目を祭っている寺院もあります。

仏は人間的であり、神道より信仰の対象は絞られています。

キリスト教と遜色がない教えが発達しており、日本人の心に生きていると思います。

 

見えるものは神ではない、神は唯一絶対とする既存の一神教は、神道や仏教よりすぐれた宗教と思われがちですが、こと既存の一神教については信者はただ神を信じるだけで、神を説明できる人は一人もいません。

絶対と言うので自然の法則のような冷徹な神かと思うと、人格を持っていると言いますから矛盾しています。

自然の法則と人間性をミックスした観念的神を神としていると思います。

人間性を持っていますから教えはかなり発達しています。

日本では信者は少ないと思います。

 

キリスト教は一神教に多神教の要素が加味されており、神のほかにイエス・キリストと聖霊が信仰の対象となっており、三位一体であるとの不可解な説明がなされています。

イエスの生き方、イエスの教えに共感する日本人は多いと思います。

聖霊に共感する日本人も多いと思います。

しかし、キリスト教会の活動は活発ですが、日本では信者は多くありません。

不可解な物語や教義が多いからでしょう。

すでに書いたように教えは発達しています。

 

既存宗教は非常に複雑で何が真実か抽出することがむずかしいのですが、信仰の力と教えは共通項ではないでしょうか。

特に信仰の力は真実と思います。

何を信じても信じた人は力を感じます。

人間が考える神に力があるのではなく、信仰に効果があるように思えます。

あるいは人知をこえる神が存在していてその神が信仰に反応しているように思えます。

いずれにしても信仰とは自我が自我をこえる大きな力を信じることだと思います。

そこに信仰の効果があらわれる秘密があると思います。

 

いかに科学が進歩しても科学的知識は人が生き生きと生きる力になっていません。

信仰が力になっています。

気が遠くなるような人類の歴史において人は信仰に力をえて生きる仕組みになっていると思います。

 

既存宗教を否定し、自分は無神論者と言ってもいいと思いますが、信仰まで否定すると不信の人生、自信のない人生を送ることになると思います。

多くの情報知識を学んでも信仰なき人生は迷いの人生になると思います。

無神論者は自我を信じようとしますが、自我は臨機応変を特徴としており、外からの情報で動きやすいからではないでしょうか。

自我が安定するためには内なる不動に立脚することが必要です。

 

ところで私は生きている人に作動する精神に神秘を感じています。

精神の中で誰でも認識するのが自我です。

自我が人生に非常に大きな影響力を持っていることは誰も否定しないでしょう。

自我は思考と行動の主体です。

 

しかし、人が生きている状態をよく観察すると自我だけではなく、別の本能的力が作動していることは明白です。

体の機能としては生理学的本能ですが、精神活動においては精神的本能です。

この精神的本能は、人類がウイルスのような状態から数千万年、数億年、あるいは数十億年かけて現代まで発達してきたと思います。

つまり精神には自我のほかに精神本体と呼ぶべき人を生かす力が作動していると思います。

自我が認識する、しないにかかわらず、すべての人に作動して人を生かしていると思います。

この精神本体は自我と共働しており、自我をも助けていると思います。

精神本体を親とすれば自我は子のようなものだと思います。

 

注目すべきことは、親が子を盲目的に愛するように精神本体は自我を盲目的に助ける特徴があることです。

悪い例で説明しますと、自殺は普通なら到底できることではありません。

精神本体は本来人を生かすために作動しています。

ところが自我が自殺すると決めると精神本体は自我が自殺を実行することを助けてしまいます。

つまり精神本体は自我の思考・実行の力になっています。

 

このことからわかることは、自我が作動しない状態なら精神本体は単純に人を生かす力として作動する、自我が作動する状態なら自我の思考・実行を助ける方向に作動し、思考が悪ければその人を殺す力になってしまうこともあるということです。

教えのある宗教が重視される理由は、自我の思考を健全にするためと思います。

 

私は精神本体を神として信じ、「人の命」と呼んでいます。

こう呼ぶことで、生きること、人を生かすことを重視し、自我の健全性を保ちたいと思っています。

人の命は法の基本、知恵、教えの基本と思います。

2013.9.1

 

○祈りに耳を貸してくれるのは、外なる神仏ではなく、「人の命」

 

仏教を学ぶならゴータマ・シッダールタの言動を記録したできるだけ古い資料、キリスト教を学ぶならイエスの言動を記録したできるだけ古い資料、イスラム教を学ぶならマホメットの言動を記録したできるだけ古い資料を研究するのがいいと思います。

 

たとえば現代人が説く仏教はゴータマ・シッダールタの教えとは異なっていることが多いと思います。

厳密に言うなら仏教というより別の宗教名で呼んだ方がいいことが多いと思います。

それを仏教と言うので仏教が複雑な教えの混合宗教の観を呈し、訳がわからなくなります。

キリスト教もイスラム教も同様です。

 

できるだけ古い資料を研究すると、宗教が単純になり、わかりやすくなりますが、どうしても教えが教祖の時代などの影響を受けたものなので教えは普遍性に問題があります。

したがって既存宗教で現代に通用する宗教があるかというと疑問です。

既存宗教がすべて時代がかっている(時代色を持っている)原因はここにあります。

仏教、キリスト教、イスラム教は、世界三大宗教と呼ばれていますが、絶対ということはないと思います。

 

したがって現代人が現代人なりに新宗教を説くことは問題ないと思います。

仏教などのように2500年後にも多くの人によって研究されるかどうかは新宗教が感動をもって人々に受け入れられるか、信者が熱心に人に伝道するかによると思います。

 

私は自我が認識できない精神の奥深いところで作動して人を生かしている精神本体を「人の命」と呼び、神として信じています。

「人の命」は生きている人すべてに作動しています。

祈りに耳を貸してくれるのは「人の命」です。

外なる神仏ではないと思います。

2013.8.17

 

○いいことの基本は「人の命」を信じること

長期的に見て自分にとっていいことは他人にとってもいいことであることが多いと思います。
人々の価値観が多様化する原因は、その時、その場所で自分にとっていいことをいいことと考えるからだと思います。
したがって短期的に物事を考える傾向がある人は複雑な考えを持っていることが多いと思います。
また考えが変わりやすいと思います。


印象的なこと、たとえば感動を経験して、あるいは考え続けることで価値観が固定することがあります。
しかしその価値観が一生通用するとは限りません。
比較的長期的に自分にいいことと思えても一生いいということにはなりません。
他人にとってもいいことということにはなりません。


長い歴史をへて現代に伝わっている法の中には永遠性を持っている法があります。
現代の法律、慣習を勉強するといいことを学ぶことができると思います。
宗教も神仏が言ったという形でいいことを記録しています。
信仰に入ってしまうと悪いことまでいいことと思い込んでしまう恐れがありますが、世界三大宗教などを比較研究するような勉強をすると概していいことを抽出しやすいと思います。


いいことを考えるには、未来に通用するか、世界に通用するかと考えるといいと思います。
その時、その場所で自分にとっていいことを考えていると、臨機応変でいいと思えても、うそをついているとか、価値観をころころ変えているとか、実は悪いことをしているかもしれません。
自信や信用を失い、人間関係悪化の原因になるかもしれません。


人生にとっていいことは何と言っても生きることです。
今自分が生きているのは自分を生かす力が自分に作動しているからです。
この自分を生かしている力を「人の命」として信じることは生きるのに有効です。
「人の命」を信じると生き生きと生きることができます。

「人の命」を信じることは、いいことの基本だと思います。
この基本は、いいこととして、未来にも世界にも通用すると思います。
法の中の法、永遠の法と思います。
2013.4.21

○宗教は多様化し、一人一宗教の様相を呈する

世界三大宗教と言いますと、仏教、キリスト教、イスラム教ですが、信者の数はどうなっているでしょうか。
どの宗教も減りつつあるのではないでしょうか。


イスラム教ではアッラー以外に神格化されたものがなく、単純でわかりやすいため信者は多いでしょう。
しかし、イスラム教の聖戦や罰に見られる殺人は非人間的な行動であり、世界では受け入れられないでしょう。
人命重視は世界中の国が国法の中で重視しています。
そのほかイスラム教の慣習は地域性が強く、世界に普及するとは思えません。


キリスト教では、神、キリスト、聖霊が神格化されており、キリスト教会はこれらは三位一体と教えていますが何ともわかりにくい宗教です。
ヨーロッパの帝国主義とともに世界各地に広まりましたが信者の数は減少中と思います。
聖書を勉強しイエスの教えに共感する人は多いと思いますが、キリスト教あるいは教会離れが進んでいくと思います。


仏教は、仏が無数で非常に複雑で無数の宗派に分裂しており、キリスト教よりわかりにくい宗教です。
信者はやはり減る方向と思います。
慣習は地域性が強く、世界性はないと思います。


昔は宗教施設は重要な教育・研究機関でしたが、内容に迷信が多いということでほとんどの学問が宗教施設から科学的教育・研究施設に移りました。
今では宗教施設は人間以上の無限・絶対的なものを信じ、崇拝、信仰、祈祷の場となっています。
実は原始宗教の形に戻ったのだと思います。


世界三大宗教の信者の数は減っていると思いますが、宗教信者は具体的な霊験(信仰の力)を感じるので宗教が消えることは永遠にないと思います。
今後は人が信じるものは多様化すると思います。
つまり一人一宗教の様相を呈します。
信者は霊験を大事にしますから、宗教が世界三大宗教でなくても気にしません。
人に知られていない宗教でも霊験のあった宗教がその人にとって一番大事です。

しかし人命を軽視したり、金銭を重視しすぎたり、世界支配を重視したりする宗教は非人間的、反社会的と批判されるでしょう。


私は生きている人すべてに機能している精神の中の、自我ではない精神本体と呼ぶべき精神(原始的精神、原精神)を信じています。
神本体を「人の命」と呼んで神として信じています。
人生とは「人の命」と自我の二人三脚と思っています。
2013.4.7